今月26日にクリナップのショウルームで、お話をさせて頂くこが出来るようになりました。

伝次郎の家のお話です。2000年頃からですから、もう20ねんになります。

私は、建築が好きで、大工だった父の跡を継いで建築をやってきました。私は、大工の修行は8年程ですが、その前に設計の修行時代が5年ほどありますから、下積みが長かったです。

私の家は、紺屋の白袴ではないですが、小さい時から、間借り、借家住まいが永らく続き、大学時代は勿論、アパート、下宿と不自由な住まいでした。結婚しても10年間はアパート暮らしで、そんな不自由が当たり前になっていました。

その反動でしょうか、学校を出ると、美を追求する数寄屋建築に惹かれ、没頭するようになってしまいました。数寄屋の魅力に引き込まれ、自分が生きてきた暮らしとは、全くかけ離れた住まいを求めるようになっていきました。

どうなんでしょうか?反動なんでしょうか、只、数寄屋のような、現実の生活とは空気の違うものを作ってみたかったのです。

このようなことを、商売としてやっていくのは、実際は大変なことでした。色々と紆余曲折もありましたが、40年近く数寄屋を目指してきました。

2000年に国の政策で、介護保険制度が出来た時に、その制度の中の住宅改修という制度が有りまして、その工事をやってみたくなり、3年間で350軒ほど工事をやりました。

それというのも、私達の子供は女の子2人なので、行く行くは夫婦2人になるだろうな、ということと、長い数寄屋の仕事にも、ちょっと疑問を持っていたことも有りました。それは、数寄屋の美を求めるあまり、日常の生活感から少し外れているかな?という気持ちも、正直ありました。

それと、絶対的な動機がありました。それは、その当時、日経新聞に25回に及ぶコラムでした。これを投稿されていたのは、国際医療福祉大学の林玉子先生でした。この方は建築出身で、ご自身は若い時に小児麻痺を患い、足に不自由を感じていらしたとのことでした。林玉子先生のお考えでは、子育ても終わり、仕事も無事済ませた老後は、人生の一番楽しい時だ、自由に、自分の生活を楽しむことが出来る時だ。とおっしゃっていますが、その為には、元気な内に、その備えを我が家にしておかなくてはならない、とも言っておられた。その備えとは、人間の尊厳をもち続けることが出来るのは、最後まで、自分の力で用を足すことが出来る、自分の力で体をきれいにすることが出来る、この事だったのです。

私は、この林玉子先生のお話が強烈に響いてきました。私は住まいというものを、もう一度見直してみようと思いました。

まだまだ、有りますが、伝次郎の家はこんなことがキッカケで始まりました。